スーパーシニアのゴルフライフ

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NO.150

ゴルフのルーティーン

 丁度42年前の昭和47年10月(33歳)にゴルフを始めました。陳清波プロのハーフセットを購入しましたが、今頃はハーフセットは売っていないとは思います。当時は初心者はハーフセットから始めるのが当たり前だったように思います。ドライバーヘッドはヒッコリー製で大変小さいヘッドでした。その後メタル製からカーボン製に変わり、ヘッド体積も大きくなりまたスイートスポットも広くなり大変打ち易くなったと思います。当初は工場近くの練習場へ週に4〜5日は通いました。所属プロに1ポイントか2ポイント教えて貰ったら、その教えを守って1ケ月位練習し、又1ポイントか2ポイント修正して貰い練習するという繰り返しをしてきました。半年後の初ラウンドは愛知県岡崎市にある葵CCで125ストロークでした。広い緑に囲まれたスペースを4人が独占してプレーできる素晴らしさに大変感激しました。当時は月1〜2回のプレーが精一杯でしたから、プレーの1週間前からウキウキし、プレー後も1週間くらい余韻を残して楽しんでいました。月7〜8回はラウンドするのが当たり前になった今日この頃では、ラウンドそのものの感激は少なくなりましたが、元気な間の友として出来るだけ長く付き合っていきたいと考えています。

 ゴルフのラウンド前に決めていることがあります。

@   ゴルフの前日は晩酌程度にし、外食は出来るだけ避ける 

A   前日はゴルフ練習場へ行って軽めの練習をする 

B   当日は約1時間前にはゴルフコースへ着くように家を出る

C   ゴルフコースへ着いて着替えた後は、パター練習場でストレッチをしてから、ショートアイアンを2本持って素振りをする 

D   それから、サンドウエッジで10〜30Y位のアプローチの練習をする 

E   次にパッティングの練習は、練習グリーンのフラットな所で20歩の距離をしてから10歩の練習をして、当日のグリーンの速さを身に付ける 

F   次に1ピンの長さの練習をしてから、約50cmの距離を真っ直ぐに打つ確認をする 

G   スターティングホールでは、ティアップをしたらボールの着地点を見定める

H   ドライバーからパターまで全てのクラブで、ボールの10cm手前から10cm後方までフェース角度を変えないで振り抜くぬく

I   ウッドやアイアンだけでなくパッティングもヘッドアップに気を付ける

 を心掛けています。

                                            1番 ミドルホール                                     10番 ロングホール

ホームコースは兵庫県加西市の加西インターCC(旧山陽カンツリーC)ですが、上田治氏設計の素晴らしいコースです。アウト・インのスターティングホールの写真を掲載しました。エチケットとマナーを守りながら、出来るだけ長くラウンドを続けたいと願っています。

 

    平成26年9月5日 高木晧次

 

 

NO.149

南米のパリ・ブエノスアイレス

2014FIFAワールドカップ・ブラジル大会が終わりました。期待していたアルゼンチンは決勝のドイツ戦で、延長戦の末0対1で負けました。只、決勝戦まで行ったわけですからブエノスアイレス市内は負けたとは言え、良くやったと大騒ぎだったとTVで報じていました。ブエノスアイレス市に駐在していた1,980年当時のアルゼンチンは、民政のペロン大統領の後の軍政(ビデラ大統領)の時代でしたが、治安も良く夜中の一人歩きも全く問題ありませんでした。

日本の主食はお米ですが、アルゼンチンは牛肉です、当時のアルゼンチンの牛肉の消費量は一人当たり年間80kgで世界一と新聞に書かれていました。牛は大平原に放し飼いで、1年に1回位はガウチョ(カウボーイ)が牛を集めて、細長いプールのような消毒液に通すだけですから手間が掛らず安いのではないかと思っています。逆に、豚や鶏は人間が世話をして飼わなければいけないので高かったのではないでしょうか。ブエノスアイレスの郊外へちょっと出ればカンポ(平原)が広がっており、見渡す限りカンポでした。牛肉が安いはずです。アルゼンチンの肉屋さんでは、日本のようにスライスした牛肉は売っておらず塊で売っていましたが、1kg位の塊が当時500円くらいでしたから、日本と比べれば十分の一くらいの値段ではなかったかと思います。勿論、米や魚や野菜や果物よりも牛肉が一番安い食べ物だったと思います。広い国土だからの話で、日本では考えられません。

 子供は二人とも小学生でしたからブエノスアイレス日本人学校に通っていましたが、スクールバスが巡回して乗せて行ってくれるので、決められたゾーンに住む必要がありましたので、ブエノスアイレスの中心街に近いマンション住まいでした。1フロア1ファミリーのマンションが殆どで、英国式に1階はグランドフロア(GL)です。GLには管理人が住んでおり、別に玄関や面会室がありました。2階から上に住人が住んでいましたので2階を1階と言い、3階を2階と言っていました。毎週土曜日には、ニホンケオリアルヘンチナ社(NA社)の福利厚生施設として借りていた一軒家に家族が集まり、アサード料理(アルゼンチン式バーベキュー)を食べて赤ワインを飲み、家族聡ぐるみで懇親を深めていました。出勤日の昼食は工場の門を出た所のレストランで外食をしていましたが、時々はウサギの肉やエスカルゴも食べましたが殆どは一番安いステーキを食べていました。夜は夜で自宅でもステーキでしたから、1日2食牛肉を食べていたことになります。アルゼンチンの牛肉は脂身のない赤い肉でしたから、主食として食べていても毎食美味しく頂いていました。日本で売っている牛脂の混じった牛肉では主食になりません。夜には外食も時々しましたが、アサードレストラン(焼肉:ステーキレストラン)は夜の8時がオープンでしたので、小学生の子供には遅すぎてもっと早く開けてくれれば良いのにといつも思っていました。料理は腸や肝臓や腎臓等の内臓を食べてからステーキを食べるのがお決まりのコースでしたが、内臓も美味でしたし、血で固められた黒いソーセージ(モルシージャ)も大変美味しくもう一度食べたい料理です。アルゼンチン人はスペインやイタリア系が殆どですから、魚も勿論食べますが、主にフライにして食べており焼いた魚は食べないようです。一度大きな鯛が売られていたので、自宅でこっそりとオーブン焼きをしていたら、途端にドアがノックされ、鼻をつまんでNO(ノー),NO(ノー)と言われ階上のアルゼンチン人から怒られました。魚を焼く臭いは駄目なようです。勿論牛肉の焼く臭いは全く問題ありません。人種が違えば何もかも違う例でした。

結果的にはアルゼンチンは農業国で日進月歩の工業国の日本とは違いケ・セラセラの国ですから、工業は成り立ち難く、結局日本毛織(株)はアルゼンチンから撤退することになり、小生が最後の派遣社員となりました。我が人生にとって大変懐かしい思い出のアルゼンチンです。

平成26年7月17日 高木晧次

 

 

NO.148

はるかな国アルゼンチン

 

ブエノスアイレスの案内ハガキ

 

ブエノスの街角にて@      ブエノスの街角にてA

  

郊外電車の中央駅にて       魚屋さんにて

 2014FIFAワールドカップ・ブラジル大会の準決勝が終了し、ドイツが優勝候補のブラジルを7対1で下し、もう1試合のアルゼンチン対オランダ戦は120分では決着が付かず、PK戦となり、アルゼンチンが4−2でなんとか勝ってくれました。アルゼンチンに思いを寄せるのは、今から34年前にアルゼンチン・ブエノスアイレスにありました日本毛織(株)の子会社:ニホンケオリアルヘンチナ社(NA社)へ出向し、短い期間でしたがアルゼンチンに住んでいましたので、殊のほか思い入れがあります。

 1,980年2月15日に成田空港からアルゼンチンに向け出国しましたが、成田空港は1,978年5月の開港との事ですから、まだ2年も経っていない真冬の出国でした。カナダのバンクーバー、メキシコのアカプルコ、ペルーのリマ、チリのサンチャゴを経由してアコンカグアの山々を眺めながら36時間後に、真夏のブエノスアイレス・エセイサ国際空港に到着しました。真冬から真夏の国へ来ましたので、太陽がギラギラしていて大変暑かったことを思い出します。

アルゼンチンは1,810年にスペインから独立した国ですが、広いカンポ(大平原)に新しい国・街を作ったわけですから、ブエノスアイレス市(ブエノス)の街は1ブロックが100m毎に区切られ碁盤の目の街で、道路には必ず歩道があり歩きやすく、タクシーに乗っても住所と番地を言えば、自宅前にぴったりと着けてくれました。ブエノスの東側は大西洋ですが、西側はパンパスという大平原で、山を見ようとしたら500キロ以上行かないと見られないという所でした。帰国した当時は、近くに山が見える風景に安らぎを感じた記憶があります。

明石市が北緯35度で、ブエノスは南緯35度ですから、丁度地球の裏側になり、勿論四季もあり温暖な気候でした。日本が冬の時はアルゼンチンは夏で、空には北斗七星ではなく南十字星が、北風が吹けば暖かくなり、低気圧は日本とは反対に時計回りに吹き、クリスマスは気温30℃の真夏に行われ、言語はスペイン語、何もかもが違いましたが大変新鮮でした。

日本からブラジルへは80万人が移住したとのことでしたが、なぜかアルゼンチンへは4千人程度との事でした。アルゼンチンの国土は277万平米と日本の7倍、人口は4,000万人と日本の3分の1ですが、国策で積極的な移住の受け入れをしなかったのではないかと思っています。ブエノスの人口は290万人ですが、ブエノス市内には1,500人位の日本人が住んでいたようですが、街中でもほとんど日本人に出会うことはありませんでしたので、偶に出会うとエッと思うことがありました。商社の派遣社員も沢山おられ、日本人会のゴルフコンペで何人かと挨拶を交わし楽しくラウンドもしました。日本からの移住者の殆どはブエノス市内では洗濯屋さん、郊外では花作りで生計を立てている人が多かったようで、市内で迷ったらチントレリーア:Tinntoreria(洗濯屋)の看板を見つければ日本語でなんでも教えてくれると聞いていました。街角には箱のような台を置いて売っている花屋さんも一杯ありました。皆さん花が好きで、ベランダには沢山の花が飾ってありました。さすが南米のパリだなと思いました。(続く)

                        平成26年7月12日 高木晧次

 

 

NO.147

母校のラグビー試合観戦

 

 平成26年7月5日(土)名古屋瑞穂ラグビー場で行われた母校・京都工芸繊維大学と名古屋工業大学とのラグビー定期戦を観戦してきました。小生が在学中の50年以上も前から行われている長い歴史の定期戦です。京都と名古屋で交互に開催し、今年は名古屋での開催でした。東京や九州や関西から我が母校のOB15名が観戦に来ていました。50年ぶりにお会いする先輩もいて、試合とは別に良い思い出が出来ました。梅雨の中休みの1日で,そんなに暑くもなく、おまけに15対12で勝ってくれましたので、一層気分よく観戦できました。名工大との定期戦では小生の時代は余り強くなく負け越していたような記憶がありますが、昨年も27対19で勝ってくれたので最近はちょっとだけ強いようです。

終わった後、名古屋駅近くの居酒屋で気勢を上げて無事帰宅しました。大学時代の仲間は最大でも4年間の付き合いですからそう長い付き合いではないのですが、何年経っても懐かしく話は弾みます。来年も健康に観戦出来る様切磋琢磨したいと考えています。

                        平成25年7月9日 高木晧次

 

 

NO.146

北海道ゴルフ遠征

 

 ホームコース・加西インターカントリークラブ(兵庫県加西市)のプライベートの会・華陽会(大阪在住・在勤の会として発足)から、6月29日(日)〜7月1日(火)・2泊3日で北海道へゴルフに行って来ました。幸い3日間共に天候に恵まれ、清々しい気候の元プレーが出来ました。1日目は北海道ブルックスCC、2日目は小樽CC、3日目はツキサップGCでしたが、いずれも北海道らしい雄大なコースで気分よくラウンド出来ました。3コース共にグリーンは11フィート台と早く、アンジュレーションもある為苦労しました。従来は、初日はオフィシャルハンディで回り、2日目からは優勝、2位、3位は3割、2割、1割でHCを上げることにしていましたが、賛成多数で3日共にオフィシャルハンディで回ることになり、小生はHC8ですから気楽に回れました。1日目は5位でしたが、2日目・3日目共に優勝し、美味しい旅行になりました。総勢9名でしたので、3日間ともスリーサムでリズム良く回れたのも良かったと思います。

スイングで気を付けていることは、アドレスでは足の踵に座るように少しだけ膝を曲げて重心を下げ、後はヘッドアップしないように、思い切り振り抜くことに集中しています。兎に角、自分自身のスイングがベストと信じ切って、振り抜くことが大事と思っています。勿論、練習場でも同じです。パターでも1〜2mの距離でも結構顔が上がるので、顔を残すよう留意しています。昨年暮れに新調した“ドライバー・ゼクシオ8”も気分よく振り切れるようになり、益々ゴルフが楽しくなってきています。

 1日目の夕食はサッポロビール園でジンギスカン料理、2日目はすすきの交差点近くの毛ガニ&郷土料理屋さんで、わいわい騒ぎながら美味しく頂きました。移動はワゴン車でしたが、北海道の景色は本州とは違い、トウモロコシ畑や甜菜畑が延々と続き、北海道へ来たなと痛感しながらの楽しい移動でした。北海道遠征もほぼ毎年来ており、調べたら16コース回っています。

 最近もまあまあのスコアで回れているのも、週3〜4回はスポーツクラブへ通い、体幹の維持に努めていることも幸いしていると思いながら、今後も出来るだけ元気に長くゴルフを致したく、益々精進し切磋琢磨をしていきたいと考えています。   

平成26年7月3日 高木晧次

 

 

NO.145

アルゼンチンのサッカー

 2014FIFAワールドカップブラジル大会が佳境に入って来ました。C組の日本は1分け2敗と1勝も出来ず、決勝リーグに進出できませんでした。事前のマスコミ報道では、予選リーグの突破は可能性が高いと思われる報道が多々ありましたが、そんなに甘くはありませんでした。

元々小生の予選突破の可能性は20%位と見込んでいましたから、残念ながら予想が当たってしまいました。プロスポーツも、野球、サッカー、相撲、ボクシング、レスリング、ゴルフ等々色々ありますが、サッカー程ワールドワイドなスポーツはありません。サッカーは世界中のどこでも愛され、親しまれているスポーツです。特に南米のほとんどの国はサッカーが国技で、老いも若きもサッカーボールで遊ぶことが大好きです。30年以上前にアルゼンチン・ブエノスアイレス駐在時に痛感した事は、街角のあちこちで小さい子供がボールを蹴って遊んでいた事です。ちょっと郊外へ出ると、原っぱにはサッカーゴールをあちこちで見かけ、夕方には大人も子供も混じって一緒にボールを蹴って遊んでいました。街道筋にはゴールが1ケだけの原っぱが一杯ありました。アルゼンチンは面積が広いい為、少し郊外へ出たら原っぱが一杯です。

 基本的に日本のサッカーとアルゼンチンのサッカーの違いは、日本では中学校、高校、大学等で活躍してからプロの世界に入りますが、当時のアルゼンチンでは学校は学ぶ場で大きなグランド等は無かったと思います。その代りクラブ制度が発達しており各々のクラブには1軍から6軍まであり、1軍がトッププロです。若者の多くはトッププロ選手を目指し6軍からスタートし上位を目指しますが、最後に残れるのはほんの1部のエリートです。サッカーに対する思い入れは基本的に日本とは違うように思います。スーパースターはサッカー選手なのです。日本のJリーグの発足は1,993年との事ですからまだ20年です。アルゼンチンのプロリーグは1,931年の発足ですから80年前になります。歴史が違います。1,978年にアルゼンチンで開催されたW杯では、地元アルゼンチンが優勝しました。その2年後の1,980年にアルゼンチンに赴任しましたから、いまだ熱狂醒めやらない雰囲気でした。ボカ・ジュニアーズにはディエゴ・マラドーナが所属していました。

アルゼンチンの土地は日本の7倍、人口は日本の1/3の4,000万人ですから、人口密度は日本の1/21です。地球のほぼ裏側になりますので、日本と同じく四季があり大変温暖な所です。当時は軍事政権で治安は安定していましたので大変住み易く、ケ・セラセラの国ですから今も30年以上前と変わらないのではないかと思いめぐらせています。色々思い出の深いアルゼンチン時代です。W杯では決勝トーナメントに進出が決定したアルゼンチンがどこまで実力を発揮してくれるか楽しみにしています。ブエノス市内のリバープレート(プロ野球の読売ジャイアンツに相当する人気チーム)の本拠地へ観戦に行った時の写真を添付しています。右端は当時のニホンケオリ・アルヘンチナ社の原川社長です。     

平成26年6月25日 高木晧次

 

 

NO.144

2014FIFAワールドカップ

 

リオのパンフレット

    コルコバードの丘から見たポンデアスーカル  コルコバードの丘のキリスト像

                    コパカバーナ海岸         当時のマラカニャサッカー場

 2014年6月13日(金)からブラジルの各都市でワールドカップサッカーが行われます。

現在のブラジルの首都はブラジリアですが、1960年まではリオデジャネイロ(リオ)が首都でした。時の大統領がリオやサンパウロの大西洋沿岸部に人口や産業が偏っていたため、ブラジルのほぼ中央部に4年がかりで遷都したのがブラジリアです。

今から30年以上前に、アルゼンチン・ブエノスアイレス駐在時にリオへ観光に行きました。リオ・デ・ジャネイロはRio・de・Janeiroと書きRiver of January(1月の川)の事です。リオ市内の観光はコルコバードの丘のキリスト像へ行き、ロープウェイでポン・デ・アスーカル(パンと砂糖)に登りそれからコパカバーナ海岸へ行きました。夕食はブラジル料理のシュラスコ(焼肉)を食べ、その後年中開催されているサンバ・ショーを見に行きました。2度とこの地へ来ることはないだろうと強く思いながら観光をしましたので、その意味で今回のブラジル大会はちょっと違った思い入れがあります。

予選C組はコロンビア(FIFAランク5位)、ギリシャ(10位)、コートジボワール(21位)ですが、日本はFIFAランク41位です。ですから、対戦相手は3チーム共に格上です。

小生の予想は、予選3勝の確率は2%、2勝1分は8%、1勝1分1敗が10%で予選突破の確率は20%くらいと読んでいます。2分1敗が30%、1分2敗30%、3敗20%です。大変厳しい見方をしています。只、日本人として決勝戦に残って欲しいという強い希望を持っていることは間違いありませんが、そんなに甘いことはないと思っていますので、予選を突破すれば万々歳です。なんとか個々の持っている力を十分に発揮して悔いのない戦いをしてくれることを願っています。

リオの写真を探しましたがどこかへ紛れ込んで見つかりませんでしたので、30年前に持ち帰った観光案内やパンフレットをスキャンして添付しています。小生や家族の写った写真が見当たりませんので悪しからずご了承下さい。     

平成26年6月11日 高木晧次

 

 

NO.143

ぐるーぷ からす展

 平成26年6月2日(月)“ぐるーぷからす展”を鑑賞して来ました。この展示会は、兵庫県立神戸高校卒業の美術愛好家が毎年この時期に開催されている展示会で、今年はJR三宮駅近くのサンパルギャラリーで開催されました。

出展者の藤村仁朗さんは、兵庫県立神戸高校、京都美術大学(現在:京都芸術大学)を卒業し、その後昭和35年に日本毛織(株)に入社した芸術家です。同じニッケの先輩にあたる岡田重一さんと鑑賞後、3人で近くのビアホ−ルで懇親を深めました。

この展示会も今年は22回目を迎えたとの事ですから、大したものです。絵心のない小生にとっては、只々感心するばかりですがこれからも長く続くことを願っています。

                    平成26年6月9日 高木晧次

 

 

NO.142

ニッケ同期会の遠征旅行

 

 平成26年5月27日(火)〜28日(水)日本毛織(株)の昭和38年入社の14名が集まり、しあわせの村(神戸市西区)で1泊し、翌日篠山城(京都府篠山市)を見学して来ました。

 しあわせの村は神戸市福祉事業団経営の総合福祉施設で障害者支援施設、特別養護老人ホーム、認知症専門病院、ハビリテーテーション施設、一般の宿泊施設、温泉、プール等の他、ゴルフのショートコース、テニスコート、オートキャンプ場等、巨大な森の中に各施設が点在しています。

 篠山城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、慶長14年(1609)豊臣氏の居城である大阪城の包囲と、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点とするために篠山盆地に築いた城で、築城当時の堀や石垣は残っていますが、天守閣は家康の命令で築かれなかったとの事です。

 昭和38年入社当時は本社採用と工場採用に分かれており、本社採用は大卒17名、高卒30名位が入社した記憶があります。半年間の実習後、7つの工場と本支店へ配属となり、ほぼ全員が定年まで勤められたという事は、今になって思えば人間を大事にする企業だったと痛感しています。又来年の再会を約束し、28日午後には無事散会しました。

平成26年6月2日 高木晧次

 

 

NO.141

堂本印象美術館と京都鴨川・川床料理

 平成26年5月23日(金)京都市立深草中学校の同窓生十数人と、堂本印象美術館(京都市北区)と南座近くのアートサロンでのMAY展を見た後、団栗橋西詰めの居酒屋・まんざら亭で楽しい一時を過ごして来ました。堂本印象美術館での『40人の作家による京のうつろい―春から夏へ―』展では、同級生の久保嶺爾画伯の“春山”を観覧し、その後祇園へ移動し南座近くのアートサロンで開催されているMAY展では、同じく同級生の高橋富美江女史の“ガーベラ”を観覧して来ました。その後さらに近くの居酒屋へ移動し、美味しい京料理に舌鼓を打ちながら話に花が咲きました。久しぶりの鴨川の川床料理でしたが、ややまだ寒く防寒対策をして行きましたので丁度良かったのですが、ゴージャスな気分になりしっかりと京都のお酒を頂きました。京都は条例でお酒での乾杯を勧められているとの事ですので、もちろんお酒での乾杯でした。中学校の同窓生と会うと55年位前にタイムスリップするわけですから、みんな童心に返ります。皆さん74〜5歳ですが、元気が何よりです。市内在住の多くは2次会、3次会へ行って日が変わってから帰宅したとの事でした。

中学校の同級生には幅広い職業の人が集まるので、高校、大学とは全く違う雰囲気になります。又、近々の再会を約束し帰路につきました。

                    「 ”春山”の前で」                     「”ガーベラ”の前で」

                     「まんざら亭の川床の前で1」                           「まんざら亭の川床の前で2」

「川床からの四条大橋」

平成26年5月24日 高木晧次

 

 

NO.140

神戸・北野異人館

 

 平成26年5月14日(水) 出身の京都工芸繊維大学の同窓会を神戸で開催しました。今回は小生が幹事なので、神戸観光と神戸市内での会食を計画しました。

JR三ノ宮駅を午前10時半に集合した後、香りの家オランダ館(旧ヴォルヒン邸)、デンマーク館(旧ヨハン・フラウベルト邸跡)、オーストリアの家(旧W.クンツェ邸跡)、風見鶏の館(旧トーマス邸)等の神戸北野異人館街を散策した後、神戸大丸東隣のニッケビルB1Fのニューミュンヘン神戸元町店で、生ビールで咽喉を潤しました。

 同じ専攻科の21名中、物故者や所在不明者を除く16名中9名の参加でした。東京在住者も居る為、参加者人数はこんな所でしょう。全員が74〜75歳ですが、来年は京都での再会を約束し夕方には無事散会しました。          

平成26年5月19日 高木晧次

 

 

NO.139

北六甲カントリー倶楽部

 平成26年5月13日(火)北六甲CC(神戸市北区)でプレーして来ました。関西ゴルフ練習場連盟の会員を対象として毎年開催されているコンペで、東コースをラウンドして来ました。

当倶楽部は、服部彰氏設計のコースで東コースは昭和58年、西コースは昭和61年オープンですから約30年が経過しています。過去には関西オープンや三菱電機レディスゴルフ選手権が

開催された関西屈指の名門コースです。

 当日はフロントティ(6,313Y)からのラウンドでしたが、グリーンの速さは9.2ftと早く、グリーンのアンジュレーションもある為難しいコースでしたが、フロントナインが46、バックナインは39で計85打でした。只、出だしはトリプル ボギィ、ダボ、ダボと4ホールで8オーバーで、どうなることかと思っていましたが、残りの5ホールは2オーバーで46打でしたからこんな所でしょう。バックナインは6ホールまでは1バーディ1ボギィとパープレーでしたが、残り3ホールはボギィ3つでした。結果として、前半の10オーバーの内8オーバーが隠しホールとなり、ラッキーにも5位となり、上等なすき焼き肉を頂きました。

反省点は @ 練習場では、1Wでボールがヘッドの先の方に当たり、チーピン気味のボールが

たまに出ますが、そのイメージが本番でも払拭できず、思い切った振り切りが出

来ません。特に最初の2〜3ホールですが、今回も1番ホールで振り切れず右の

バンカーに入れてしまいました。

      A 5〜60Yのアプローチショットで緩んでショートすること。このミスをカバー

しようとして、更にダブったりトップしたりして、おまけに3パットしてダボや

トリプルを叩いてしまうこと。

兎に角、思いっきりの良いゴルフを心がけて、納得したゴルフが出来るように、切磋琢磨して行きます。北六甲カントリー倶楽部さん、お世話になりありがとうございました。

 

平成26年5月15日 高木晧次

                       

 

 

NO.138

六甲国際GC

平成26年5月8日(木)六甲国際ゴルフ倶楽部でプレーして来ました。関西ゴルフ練習場連盟の会員を対象として毎年開催されているコンペで、東コースをラウンドして来ました。当倶楽部は、1,983年に日本オープンゴルフ選手権が開催され青木功プロが優勝、その後2,001年にマンシングウェアオープンが、来年の2,015年には再度日本オープンゴルフ選手権が開催される事が決まっています。又、女子は2,006年から毎年サントリーレディスオープンが開催され、今年も6月12日(木)〜15日(日)の4日間競技が決まっている名門コースです。

 当日はフロントティからのラウンドでしたが、フロントでも6,416Yもあり結構ハードなコースで,グリーンの速さは9.5ftと早く、グリーンのアンジュレーションもある為小生にとっては手ごわいコースで、43+44=87のスコアでした。特に、最終18番ホールは第3打のアプローチに失敗し、そこから4パットしトリプルを叩いたのがこたえました。

 昨11日(日)のホームコース(加西インターCC)の月例競技会は42+40=82打で、31パットのネット2オーバーですから、まぁこんな所でしょう。なかなか納得の行く結果が得られないのがゴルフのゴルフたる所以だろうと思っています。六甲国際ゴルフ倶楽部さん、ありがとうございました。               

平成26年5月12日 高木晧次

 

 

NO.137

世界遺産・平等院鳳凰堂

 

 平成26年4月下旬、京都府宇治市の世界遺産・平等院鳳凰堂(国宝)へ行って来ました。56年ぶりに、屋根の瓦をすべて葺き替え、柱や扉、鳳凰像一対も修復し、平安の鮮やかさを取り戻したとの事でした。平等院は永承7年(1,052年)、関白藤原頼通によって父道長の別荘を寺院に改め創建されたとの事です。その翌年の天喜元年(1,053年)に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、その建物が現在鳳凰堂と呼ばれている、経典に描かれている浄土の宮殿をイメージした、優美で軽快な建物と書かれています。

 鑑賞した当日は平日でしたが相変わらずの賑わいで、中国語・韓国語が目立ちました。京都市内からやや離れているので、案外空いているのかと思っていましたがそうでもありませんでした。平等院へは入れましたが、鳳凰堂内の観覧は人数制限があり当日の入場券は売り切れで入れませんでした。とは言いながらも池越しに平等院を眺めながら、何も考えずに1時間ほどベンチに座っていましたが、なんとなく心が落ち着いたように感じました。宇治CCや東城陽GCへゴルフに行くときは、平等院の側の道を通って行っていましたが、中に入ったのは50年振りでした。

                      平成26年5月3日 高木晧次

 

 

NO.136

篠山紀信展

  

  

 グランフロント大阪北館ナレッジキャピタルで開催されている『篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN』を鑑賞して来ました。半世紀以上にわたって撮影してきた膨大な作品の中から肖像写真約100点を選んで構成された個展との事で、それぞれの写真は畳2畳分くらいの大きさですから迫力満点です。氏は73歳との事で、小生は74歳ですからほぼ同世代の方です。日頃から伝統・文化・芸術に疎い小生ですが、流石超一流の芸術品は迫力が違います。大変感激しました。5月18日(日)まで開催されていますので是非ご鑑賞下さい。

              平成26年4月23日 高木晧次

 

 

NO.135

56年目の同窓会

 平成26年4月19日(土)京都市立伏見高等学校の同窓会に行って来ました。昭和33年卒業ですから、当時はまだ戦後から脱却出来ていない頃の高度経済成長期に入る前で、当時の池田勇人大蔵大臣が『貧乏人は麦飯を食え』と言って物議をかもした時代でした。

 今は、京都市立伏見高等学校はありません。当時の京都の教育体制は、総合性(普通科と工業科、普通科と商業科が共存する教育体制)、男女共学性、地域性(例えば、普通科へ行く人は小学校区により行く高校が決められる)が存在し、普通科志望の我々は当時の京都市立伏見高等学校しか行く道がなかったのです。今は京都市立伏見工業高校となっていますので本当の母校はありません。そんなことをぶつぶつ言いながら60年近く前を思い出しつつ、若返った気持ちで3時間近くを楽しく過ごしました。

 会場はJR京都駅八条口近くの新都ホテルで行われましたが、男子17名、女子15名の32名の出席者でした。4年前は42名が参加していましたので10名減ったことになります。普通科は4クラス(工業科は6〜7クラス)約190人が在籍していましたので出席率は20%に満たないことになります。次の幹事も決まり、沢山の方の出席を願い再会を誓って閉会をしました。

          平成26年4月21日 高木晧次

 

 

NO.134

大阪・通天閣

 大阪へは日本毛織()時代に10年間、関西ゴルフ練習場連盟時代に11年半の合計22年半通いましたが、殆ど自宅と事務所間を往復するだけで、梅田を中心として1km位が行動半径でした。今頃思い出したように観光地をうろうろしていますが、通天閣へ行ってきました。

 通天閣は尖塔が103mで展望台は91mとのことで、東京のスカイツリー(634m)や東京タワー(333m)には高さではかないません。建物では近くのアベノハルカスが300mで横浜のランドマークタワーを抜いて1位になったようですが、展望台から間近に見ることが出来ました。初代の通天閣は1,912年(明治45年)に建設されたとの事ですから、今年で102周年になります。但し、初代は昭和18年に焼失したため、2代目は昭和31年に再建されたようです。界隈は新世界と称し昔ながらの盛り場ですが、近くの演芸場では公演後が終わった所の様で、芸人さんとフアンが別れを惜しんでいました。大阪の古き良き時代の『ここが大阪やねん』という場所でした。             

平成26年4月18日 高木晧次

 

 

NO.133

絵画展(明石市立文化博物館)

  

 自宅・加古川市にほど近い明石市立文化博物館で開催されている『絵画でめぐる 京都・美の探訪』展(4月12日〜5月25日まで)に行って来ました。全ての作品は京都府立総合資料館蔵(京都文化博物館管理)の展示会で、出展作品には中学校の同窓生の、久保嶺爾画伯の『清風くつわ池』と川島睦郎画伯の『椿寺(地蔵院)』が出展されていました。元々当展示会が開催されていること事態知らなかったのですが、久保画伯からチラシと入場券を送ってくれましたので、鑑賞することが出来ました。久保、川島両氏共に、京都市立深草中学校の同窓生で、高校は小生は普通科、お二人は日吉が丘高校の美術科・京都美大日本画科を出て、そのまま画家として活躍してきた人で、小生の知り合いでは稀有なお二人です。会えば嶺ちゃん、睦ちゃんと呼んでいますが、絵描きだけで飯を食っている人って日本に何人くらい居られるのか想像もつきませんが、お会いして話す毎に違う人生を思い知らされます。

添付の写真は、展示会の入口に貼られていたポスターと久保嶺爾画伯の『清風くつわ池』のコピー(自宅所蔵)の写真を撮ったものです。伝統・文化・芸術とは程遠い生活をしている小生も、偶にはこうゆう時間があるとほっとします。    

 

平成26年4月17日 高木晧次

 

 

NO.132

大相撲春場所観戦

 

 

平成26年3月15日() 大阪府立体育館で開催されている大相撲春場所7日目を観戦してきました。前日まで全勝だった白鵬、日馬富士、大砂嵐の3力士は共に勝利の勝ち名乗りを上げ安泰な1日でした。座席は、桝席A・正1・側1という場所で正面の西通路側の1番前の枡席で見易い所でした。大相撲の観戦は2回目でしたが、呼び出しの声・肌の色艶・頭と頭のぶつかり合う音・観客の声援等テレビ観戦とは全く違う臨場感溢れる観戦が出来ました。呼び出しの時の声援は、遠藤関と地元の豪栄道関の時がひときわ大きく館内に響き渡っていました。

 相撲のはじまりは、紀元前23年の日本書紀に奈良で行われたと書かれているのが最初の相撲のようです。組織化された最初の大相撲は、江戸時代のはじめの1,600年代の興行が最初とされています。大相撲のしきたり等は細かく決められており、俵の内側の直径が4.55mで、土俵の高さ・大きさも決まっています。大昔は『1年を10日で過ごすいい男』と言われていましたから、1年1場所制で10日間興行だった様です。

 現在、力士数は44の部屋に620人を超える力士が関取・横綱を目指していますが、毎年50人位が新弟子検査(23歳未満、167cm以上、67kg以上)に合格する様です。日本のプロ野球も1軍・2軍合わせて1チーム70人と決められていますから12チームで840人が在籍している事になります。プロのスポーツは、相撲・野球・サッカー、ボクシング、レスリング等いろいろありますが、いずれにしてもスポーツで食べて行くという事は、生易しいものではないなと思いながらの観戦でした。相撲人気で新弟子も今年は増えたようですが、遠藤関のような花のある力士が沢山出てきて、国技としてこれからも永々と続くことを願っています。

 

             平成26年3月18日 高木晧次

 

 

NO.131

城崎温泉

 平成26年3月7日(金)兵庫県豊岡市の城崎温泉へ『JRかにカニ日帰り旅行』に行ってきました。昨年12月6日(金)にも行きましたので今シーズン2回目になりますが、美味しく松葉ガニをお腹いっぱい頂いて来ました。丁度この日は、日本海側から東北・北海道がすっぽりと寒気に覆われた日で、分水嶺の生野高原を過ぎた辺りから雲が厚くなり、豊岡近辺からは雪になっていました。城崎温泉街は雪が降りしきり、道路はシャーベット状で歩きにくかったのですが、城崎温泉駅から100m程の近さの前回と同じ旅館「三国屋」さんで、美味しいカニ料理を頂きました。食後の外湯は温泉街のほぼ真ん中にある『一ノ湯』へ入り、乾いた喉をソフトクリームで癒しながら、温泉街をぼちぼち歩きながら駅へ戻ってきました。雪の降りしきる城崎温泉も乙なものだなあと感じながら帰ってきました。今の所、夫婦ともども元気ですから、元気な内は毎年通いたいと思っています。             

平成26年3月8日 高木晧次

 

 

NO.130

映画『永遠のゼロ』

 

 昭和16年12月8日ハワイ・オアフ島の真珠湾奇襲攻撃からはじまった太平洋戦争は、昭和20年8月15日の玉音放送で終了しました。元々資源のない日本は、太平洋共栄圏の名の元に、朝鮮半島、中国大陸、フィリッピン、インドネシア、タイ、ビルマ(現ミャンマー)からインドにまで覇権を広げましたが、半年後の昭和17年6月にはミッドウエー海戦で日本の主力空母4隻を失い、その後は敗走に次ぐ敗走を重ね、昭和20年3月には東京大空襲、沖縄戦が始まり、5月には横浜大空襲、8月6日の広島への原子爆弾、8月9日の長崎への原子爆弾の投下により敗戦が決定的になり、玉音放送に至りました。

 この太平洋戦争で310万人の方が亡くなったとされていますが、310万通りの死にざまがあったと思います。その一つとして、百田尚樹氏が原作『永遠のゼロ』を書き下ろし、山崎貴氏の監督・脚本により製作されました。今人気中の岡田准一、井上真央の二人が主演していますが、

戦争は2度と起こしてはいけないという思いが強く感じられる映画でした。

                        平成26年2月14日 高木晧次

 

 

NO.129

中学校同窓会

 

 京都市立深草中学校の同窓会が平成26年1月29日JR京都駅ビル内のレストランで行われました。FF会(ふしみ・ふかくさの頭文字)と言って、一部有志の会ですが21名が集まりました。夕方からの開催の為、昼前から清水寺と本能寺を参観して来ました。

  清水寺:初代の清水寺は、西暦798年桓武天皇の下で征夷代将軍・坂上田村麻呂が建立した

  と伝えられています。その後落雷や兵火に遭いながら何回も建立されてきましたが、今の建物は1,633年に徳川家光が建立したのと事です。1,994年にはユネスコの世界文化遺産に登録され広く認知されてきました。音羽山の中腹にありますので、太い柱で支えられた舞台は高く、意を決して行うことを『清水の舞台から飛び下りる』と言いますが、桜や紅葉の季節は観光客で賑わいます。参観した当日は1月下旬にも関わらず観光客は多く、交わされている言葉を聞いていますと中国語と韓国語が殆どでした。両国とは政治的な不安定さはありますが、経済、観光では重要な隣国であることを実感してきました。

  本能寺:その後、京阪電車にて清水五条駅から三条駅へ向かい、河原町御池の本能寺へお参りして来ました。この本能寺は、1,582年6月21日の本能寺の変の本能寺とは違うようで、明智光秀が主君信長と後継者の信忠を襲撃したのは四条西洞院にあった本能寺で、この河原町御池の本能寺は本能寺の変の10年後の1,592年に豊臣秀吉の命で建立されたと書かれていました。

本能寺も清水寺も400年程前の建物ですから、京都が太平洋戦争で空襲しなかった連合国の判断があったからこそ今の古京都があると、京都生まれの小生は誇らしげに思って帰ってきました。

今から60年位前の中学生の時に京都市内を自転車で走り回った記憶を思い出しています。

 

                          平成26年1月31日 高木晧次

 

NO.128

ゴルフを始めて42年目

 昭和47年10月にゴルフを始めました。愛知県弥富市にある日本毛織()の工場勤務の頃でしたが、陳清波モデルのハーフセットを購入しました。ドライバー、スプーン、3I、5I、7I、9I、P、S、パターの9本だったと思います。ドライバーやスプーンは勿論パーシモンで、小さなヘッドでした。近くにあった練習場へ週4〜5回は通い、桑名カントリークラブのプロからレッスンを受けていました。グリップから教えてもらい、1ポイントか2ポイント教えてもらったら、2〜3週間はその教えを守り練習し、又1ポイントか2ポイントを直して貰いながら、約半年が経過した昭和48年3月31日に愛知県岡崎市にある葵カントリークラブが初ラウンド、125ストロークでした。それ以降41年間唯一の趣味として今まで続けて来れました。

 小生のパソコンには、ラウンド日、ハーフ毎のスコア、パット数、バーディ数、OB数等全て入力しています。昨年末までのラウンドに数は2,528日(ほぼ7年)、2,781ラウンドし、年間ラウンド日数の最多は平成19年の126日、年平均スコアのベストは平成9年の79.7、ベストスコアは平成11年に69(バーディ6ケ)を出しています。年間バーディ数の最多は同年の152ケ、OBの最多は平成12年の64ケです。イーグルは11ケで内ホールインワンは1回だけです。保険に入っていましたので、テレホンカードを作り配ったのを覚えています。昨年のベストスコアは75が2回ありましたが、後から考えればもう1打でエージシュートでした。

 1番の思い出は、平成18年6月8日〜9日の滋賀県・名神竜王CCでの関西ミッドシニアゴルフ選手権の決勝で5位に入り銀杯を貰い、その年の11月4日〜7日に愛媛県松山市のエリエールゴルフクラブ松山で行われた日本ミッドシニアゴルフ選手権に出場し17位に入ったことです。その当時はまだまだ何回も出られると思っていましたが、結局関西の決勝までは行けても、まだ2度目のジャパンはありません。グランドシニア選手権は今年は5度目の出場になりますが、最後のチャンスと思っており、平成26年6月24日の有馬CC(関西予選)では、小生の好きな言葉“虚心坦懐”を胸に頑張ってきたいと思っています。

一昨日26日に撮った写真ですが、今のアドレスです。もう少しへ前へ屈んで重心を親指付け根付近にして、更にもう少し背筋が伸びた方が良いのかも…。今更進歩はないので、現状維持が精一杯です。HCもピークの3から8迄落ちましたので、月例競技にも気楽に出ています。後

10年位ゴルフが出来ればと思っています。      

平成26年1月28日 高木晧次

 

 

NO.127

謹賀新年

 あけましておめでとうございます。昨年は元旦早々に自宅で倒れ心配しましたが、結局お医者さんからは原因の指摘はありませんでした。インターネット等で調べた結果、「食後低血圧」だったのではないかと推測しています。食後に血圧が下がり倒れる例があるとの事です。1月と2月はゴルフのラウンドも自粛していましたが、3月からは全く通常の生活に戻り、本日新たな正月を元気に迎えることが出来ました。自分自身の健康に感謝しています。

 昨年は正味10カ月間で71回ラウンドし、平均スコア83.8、パット数16.3、バーディ数48、OB数13でした。ゴルフを初めて42年が過ぎましたが、平均スコアのベストは平成9年の79.7、ベストスコアは平成11年に69が1回だけありました。昨年のベストスコアは75が2回ありましたが、よくよく考えれば74でエージシュートでしたから、1打足りずでした。ホームコースではレギュラーティ(6,509Y)からのラウンドですし、ランも殆どなく、パーオン出来るホールも少ないのでエージシュートは難しいと思っています。今はそれよりも楽しくラウンドすることを主眼としています。

 本日、元旦早々に近くの『泊神社』に夫婦で参拝して来ました。当神社は宮本武蔵の甥の宮本伊織が建立した神社だそうで、小さい神社ですが無病息災を願って沢山の人が参拝していました。今年もよろしくお願いします。            

 

 平成26年1月1日 高木晧次

 

 

NO.126

チャリティー美術展鑑賞

  

 毎年12月に、神戸新聞社主催の歳末助け合いチャリティー美術展:『著名芸術家と名士作品展』が開催されます。今年は、JR神戸駅前の神戸クリスタルタワー3Fのクリスタルホールで12月11日(水)〜15日(日)の5日間の開催で、本年も中学校の同級生の二人が出展しています。出展している画家の高橋富美江女子と同級生の吉川定男君が神戸へ来るので是非出て来いという事で、初日の11日に一緒に鑑賞しました。出展者のもう一人は日展会友の久保嶺爾画伯ですが所要のため来れませんでした。この美術展はチャリティーの為全く報酬がないとのことですが、京都でも同様の展示会が開催されており出展しているとのことでした。当展示会は洋画家、日本画家だけではなく、書道・陶芸や彫刻等色々なジャンルの作品が出展されています。

鑑賞後、神戸大丸百貨店・東隣のニッケビルB1の「ニューミュンヘン神戸元町店」で懇親を深めました。3人の写真を撮り忘れましたので、女子の作品「ばら」と案内はがきの写真を添付しました。50年以上経っても誘ってくれる友達がいて、昔懐かしい話に50年以上若返った気持ちになれます。元気なうちはどこへでも出掛ける予定です。

                     平成25年12月20日 高木晧次

 

 

NO.125

城崎温泉

 平成25年12月6日(金)兵庫県豊岡市の城崎温泉へ『JRかにカニ日帰り旅行』に行ってきました。毎年年初に行っていますが、どうしても松葉蟹(ずわいがに)が食べたくなり。初めて師走に行って来ました。JR加古川駅を8時半過ぎに乗り、2時間少々で城崎温泉駅に到着します。若干の曇り空で、ぽつぽつと雨の降るお天気でしたが、「三国屋」さんという旅館での蟹料理は予想通りの美味しさで満足して帰ってきました。料理は蟹づくしで、茹でガニ、焼きガニ、お刺身、鍋と満腹になりました。その後、城崎温泉の外湯はいくつかありますが、今年は駅から一番遠い「鴻の湯」へ入り、乾いた喉をソフトクリームで癒しながら、温泉街をぼちぼち歩きながら駅へ戻ってきました。お土産に買ってきた茹で蟹も翌日にぺろっとおいしく頂きました。年が変われば1月か2月に再訪する予定です。     

平成25年12月18日 高木晧次

 

 

NO.124

50年目の大学同窓会

 平成25年12月3日(火)JR高槻駅近くの居酒屋で、近年は毎年実施している大学の同窓会に参加しました。出身の京都工芸繊維大学は50年前に卒業した当時は、工芸学部(京都市左京区松ヶ崎)と繊維学部(京都市右京区白梅町)の2学部でしたが、その後の学制改革で今は工芸科学部の1学部になっており、おまけに当時の学科名は一つも残っていません。今は繊維と名のつく学部、学科は一つもないのに大学名は繊維が残っておりちょっと不思議な気がします。

我々が卒業した昭和38年当時は岩戸景気とやらで右肩上がりの経済状況で、就職活動のようなものは全くなしに、ほぼ全員が1部上場企業に就職していました。卒業の専攻科は22人が入学し21名が卒業しましたが内3名は物故者となり、18名が存命でその内10名が参加しました。趣味の話や病気の話や孫の話や他愛無い話をしながらの3時間でしたが、50年前にスリップしたかのような楽しい一時でした。

夕方からの開催でしたので、何年か振りで大阪城を見学してきました。豊臣秀吉の栄華をしのびながら400年前の戦国時代の生き様を振り返ってきましたが、近隣の国で最近粛清があったと報じていますが、400年前も多分そうだったんだろうなと思いを起こしながら、今の日本の平和に満足している今日この頃です。来年は小生が幹事ですので神戸で行い、風見鶏の館等の見学会も兼ねて行う予定です。             

平成25年12月14日 高木晧次

 

 

NO.123

宮崎ゴルフ遠征

 平成25年11月27日(水)〜29日(金)にかけて、先月に引き続き宮崎へゴルフに行って来ました。関西ゴルフ練習場連盟以来のお付き合いで、宝塚水上ゴルフクラブの桐越さん、ゴルフセンター171の田近さん、阪奈ゴルフの荒川さん、明舞ゴルフセンターの上野さん、豊岡ゴルフの大伴さんと小生の6名で行って来ました。例年は男子プロトーナメントのダンロップフェニックスオープンに合わせていますが、今年は女子プロトーナメントのリコーカップ(女子プロトーナメント最終戦)に合わせて行って来ました。

1日目は大淀CCでプレー、2日目は宮崎カントリークラブでの女子プロトーナメントの観戦、3日目はハイビスカスGCでプレーの日程でした。宿泊はいつもの通り宮崎観光ホテルですが、朝食のバイキングも一つの楽しみです。3日間共に晴天に恵まれましたが、全国的に寒波が押し寄せた時で、南国・宮崎も風が強く、ポカポカ陽気の中でのプレーとは行きませんでした。

女子プロ最終戦も地元出身の大山志保選手が健闘していましたが、韓国勢が強く来年度の日本勢の健闘が期待される所でした。          

平成25年12月10日 高木晧次

 

 

NO.122

老いて益々盛ん???

 

 昭和14年11月17日生まれですから、先日の日曜日で74歳になりました。タイトルの様に『老いてますます盛ん』と言いたいのですが、70歳を過ぎてから少しずつ老いを感じるようになってきました。去年の8月末日までの約73歳まで関西ゴルフ練習場連盟に勤務させて頂いたので、大学を卒業してから日本毛織()と連盟の合計で約50年働いたことになります。社会に何らかの形で貢献するという事には十分させて頂いたとの認識をしています。「もういいでしょう」という気持ちです。

 今は、月6〜7回はゴルフコースへ、週2〜3回はゴルフ練習場へ、週3〜4回はスポーツジムへ通っています。6月にはホームコースのプライベートの会で徳島へ、9月中旬には関西ゴルフ練習場連盟の方々と三重県・白山ビレッジGCへ、9月下旬にはホームコースの研修会で岡山へ、10月中旬には関西ゴルフ練習場連盟の方々に宮崎へそれぞれ1泊旅行に連れて行って頂きました。又、来週にはLPGA最終戦のリコーカップの見学も兼ねて2泊3日で宮崎へ遠征します。12月には京都の中学校同級生の有志の会の集まりや大学の同じ専攻の同窓会や家内との城崎温泉の「JRかにカニ旅行」等色々なスケジュールが一杯です。

 この春先にニッケの3年位先輩が亡くなり、葬儀に参列した折に遺影を残したいとの思いが強くなり近所の写真館へ行って来ました。写真館の人は記念写真ですね言われ遺影とは言わないんだなあと変な所で感心して帰ってきました。年に1回は人間ドックに入り健康チエックもしています。高血圧・尿酸値・高脂血症の薬は欠かさず飲んでいますが、データ的には全く問題なく、癌の兆候もなく、元気に生き延びているという感じです。健康寿命が時々話題になっていますが、あと10年位は健康で、ゴルフ練習場やコースへも通い、元気はつらつとしていたいと願っている今日この頃です。ゴルフは60歳の時にHC3が1年で1ずつ下がって70歳で13を目標にしていましたが、何とか8を保っていますので、この点の目標はクリアしている事になります。

このコラムも120回を超えました。最初は大東プロから関西ゴルフ練習場連盟の事務局長として投稿を依頼され、余り好んで書いていたようには思っていませんでしたが、最近は自分の生き様を記録する意味で生きがいを感じながらパソコンに向かっています。こういうチャンスを与えてくれた大東プロに感謝しています。       

平成25年11月22日 高木晧次

 

 

NO.121

神戸散策

 

 自動車免許証の更新は、近辺では明石運転免許試験場がありますが、小生は兵庫県警本部(JR元町駅近く)へ行っています。県警本部では優良運転者と高齢者専用ですが、更新者の人数も少なく約30分で新しい免許証を受け取れました。

 その後、地下鉄で新神戸駅へ行き、近くの神戸布引ハーブ園のロープウエイで山頂駅へ行きましたが、生憎の曇り空で神戸港も霞んでいました。30分ほど散策した後ロープウエイで山麓駅に降りて、ほど近い北野天満神社と旧トーマス邸「風見鶏の館」(国指定重要文化財)近辺を散策しました。北野天満神社は平安末期の1,180年京都の北野天満宮から分祀され創建されたとのことで、学問の神様とされる菅原道真がまつられています。以来周辺を北野と呼ばれているとのことでした。北野界隈は幕末の神戸開港以降、外国の貿易商が沢山移り住んだ為、一帯は異人館が立ち並ぶ観光地になっています。

北野天満神社でおみくじを引いたら紙の裏に「Exellent uck(大吉)」と書かれていました。今年は残り少なくなってきましたが、来年も良いことが沢山ありますように(^0^)。

                        平成25年11月11日 高木晧次

 

 

NO.120

先祖の墓参り

 平成25年10月25日(金)岐阜県垂井町にある先祖の墓参りに行ってきました。前日の夜は京都市伏見区の実家に集まり、長兄(東京在住)、次兄夫婦、妹(東京在住)と5人でご馳走を頂きながら、兄妹ならではの話を夜遅くまでして懇親を深めました。翌朝JRで京都駅から米原駅へ向かい、米原駅で駅レンタカーを借りて墓参の後、湖北の長浜観光をしました。

長浜城は、羽柴(豊臣)秀吉が1,574年頃から築城を開始し栄華を誇ったお城で、天守閣からは四方八方見渡せる絶景地です。琵琶湖は日本一の大きい湖だけあって海のような広さですが、比叡山や比良山からの眺めとは一味違う眺めでした。長浜の街並みは古い建物も多く、毎年4月15日の長浜曳山祭りには12基の曳山の内4基が街内を巡航するようです。曳山博物館にも入り見学しましたが、長浜の曳山祭りは京都の祇園祭、飛騨の高山祭との日本3大曳山祭りのひとつとの事でした

 東京在住の長姉は体力的にも遠出は不可のため来ませんが、来年も年1回は兄妹で集まろうと約束し懇親を深めました。写真は彦根城を背景にした長兄と妹の写真と彦根城の天守閣からの琵琶湖の展望写真です。                

平成25年11月9日 高木晧次

 

 

NO.119

日毛掬水会・日帰り旅行

 平成25年10月22日(火)日本毛織()OB会の日帰りバス旅行に参加し、丹後方面へ行ってきました。神戸・湊川神社正門前を午前8時半に出発し、天橋立の傘松公園→日本旅館の「茶六別館」で宴会→舞鶴引上記念館→舞鶴港とれとれセンター→神戸のルートで予定通り夕刻の6時には無事神戸に戻ってきました。

舞鶴引上記念館は2度目の見学でしたが、シベリア各地のほか、コーカサス、北極圏等の収容所から長い辛い抑留生活を終え47万人余りが帰国した港です。極寒地で十分な食料もなく、寒さと飢えで沢山の人が亡くなりました。いつの時代でも戦争は悲惨なものです。

 ニッケ掬水会には関西在住が160名、中部60名、関東30名の計250名が在籍しているとのことですが、関西から160名中40名が参加しました。入社年度や在職中の役職にはこだわりのない会で、楽しく飲んで喋っての旅行でした。 

                         平成25年11月6日 高木晧次

 

 

NO.118

宮崎ゴルフ遠征

 平成25年10月16日(水)〜17日(木)1泊2日の日程で、関西ゴルフ練習場連盟の東阪神ブロックの宮崎遠征に同行しました。1日目はLPGAリコーカップが開催される宮崎カントリクラブ、2日目は宮崎サンシャインCCでした。以前に東阪神ブロック会から熊本へ遠征したことがありましたが、その時は確か3組くらいで行ったと思いましたが今回は少人数でした。

 宮崎CCはトーナメントに備えてフェアウエイは狭く、ラフは長く、おまけにグリーンは固く、高麗芝で44、43も叩きました。2日目の宮崎サンシャインCCはバーディ1ケで38,42とまずまずでした。 夕食は魚の美味しい料理を頂き、飲み過ぎることもなく楽しいゴルフ遠征でした。                    

平成25年10月21日 高木晧次

 

 

NO.117

映画『許されざる者』

 

 クリント・イーストウッド監督・製作・主演の伝統的名作『許されざる者』は、1,992年第65回アカデミー賞で9部門にノミネートされ、最優秀作品賞を始め4部門を受賞した最高傑作に、日本最高のスタッフとキャストが集結して新たなる日本映画が誕生した。

 舞台は1,880年、明治維新期の北海道。かつて「人斬り十兵衛」と恐れられ、人を斬ることで生き延びてきた男が、愛する妻と出会い、ようやく違う生き方。刀を捨てたはずだった。しかし、妻亡き後、最北の地で幼い子どもたちと極貧の生活に晒される日々のなか、昔の仲間が「賞金首」の話をもってやってくる。客にずたずたに切り刻まれた女郎が、自分たちの貯めた金で敵を討ってほしいと懇請している。自分のためなら二度と手にすることのなかった刀を、男はふたたび抜き放つ……。

 出演は、渡辺謙、佐藤浩市、柄本明。共演は、柳楽優弥、忽那汐里、小池栄子、小澤征悦等の錚々たるメンバーで、ストーリーもさることながら、100年以上前の荒涼たる北海道の大自然の、テレビでは味わえない巨大画面に圧倒されながらの2時間15分でした。

               平成25年10月12日 高木晧次

 

 

NO.116

岡山ゴルフ遠征

 平成25年9月28日(土)〜29日(日)に加西インターCCの研修会で、遠征ゴルフに行ってきました。1日目は備前ゴルフクラブ、2日目は作州武蔵カントリー倶楽部でのプレーでしたが両日ともに好天に恵まれ、両コース共に標高が4〜500mの為か、むしろ涼しい感じでした。加西インターCCの研修会員は総勢で20人足らずの為元々少人数なのですが、自営の方は2日間の休暇が取れない人が多く、結局は8名の参加でした。ホテル作州武蔵の宿泊でしたが、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、温泉につかり元気に帰ってきました。

 1日目は40、41(65歳以上はレギュラーティ)のネット73で2位でしたが、2日目は前夜の麻雀による夜更かしの為か集中力もなく87打で散々でした。もうじき74歳になるのにフロントティから回らしてくれません。しかし、元気な間はどこでも行きますよ(^0^)。

                          平成25年10月2日 高木晧次

 

 

NO.115

四天王寺(大阪市天王寺区)

 

 平成25年9月24日(火)四天王寺を訪問し、小生の大学ラグビー部の1年先輩の出口順得さんと外村嗣夫さんにお会いし、楽しい1日を過ごしました。お二人は京都工芸繊維大学建築学科卒業で、出口さんは卒業後建築の道を進まず、親父さんの後を継いで四天王寺・東光院の僧侶となられ、後に四天王寺の管長も務められた方です。外村さんは長く設計事務所に勤務された後、請われて四天王寺学園の教授を勤めながら最後は副学長になられた方です。お二人は小生の1年先輩ですから、3年間ラグビーで汗を流した間柄ですが、ほぼ50年ぶりの再会で、飛騨・高山合宿の思い出やあちこち遠征した思い出に花が咲きました。

 四天王寺は約1,400年前の推古天皇の時代に建立され、明治維新の神仏分離令や昭和9年の室戸台風の来襲等色々な苦難があったようですが歴史のあるお寺です。昭和20年の大阪大空襲では、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部を残して、境内のほぼ全域が灰燼に帰したとのことです。

お住まいの東光院の重要文化財の襖絵や屏風を見せて貰い庭園を1周した後、夕食を共にして四天王寺を後にしました。庭園には桜の木も沢山あり、来年の4月には再訪することを約束して帰ってきました。(写真の左が外村さん、右が出口さん)  平成25年9月27日 高木晧次

 

 

NO.114

白山ビレッジ

 中部ゴルフ練習場連盟と関西ゴルフ練習場連盟との交流会に参加しました。関西から北野理事長、恒藤さん夫婦ら7名と中部の3役5名の12名が、三重県の白山ビィレッジゴルフコースQUEENコースで懇親を深めました。9月15日(日)から16日(祝)にかけて台風18号が日本列島を縦断しましたが、16日午後には晴れ間も見える天候に恵まれ快適なドライブで、前夜の夕食会も賑やかでした。17日のプレー当日は台風一過清々しい天候に恵まれました。

 当コースは2015年の日本シニアオープンが開催されるコースで、素晴らしいコンディションのもと2バーディ、5ボギィ、1ダブルボギィの78打で回れ、久しぶりの70代のラウンドでした。又来年も交流会を開催しようと無事閉会しました。恒藤さん運転ありがとうございました。                      

平成25年9月20日 高木晧次

 

 

NO.113

関西ゴルフ練習場連盟オーナー会

 関西ゴルフ練習場連盟の正会員は、関西の2府4県に98場ありますが、経営母体が大企業の練習場とほぼ個人経営の練習場に分けられます。後者の練習場は大企業とは違った運営をされている為、年に何回か独自の情報交換会(オーナー会)を催されています。平成25年9月4日も播州東洋GC(兵庫県加西市)でラウンド後、姫路で情報交換会を開催する予定でしたが、生憎の大雨でプレーは出来ず夕方から情報交換会のみ開催されました。

 姫路市大黒壱丁町(姫路城とJR京口駅のほぼ中間)にある『おくだ』という料理屋さんで、鱧料理を頂きました。鱧の湯引き、焼き鱧に鱧鍋でしたが、美味しく頂きました。前回の同会は冬でしたので、同じ場所でフグ料理を頂きました。皆さんは姫路泊まりで、しかも時間の感覚の薄い方々ですので、小生は2次会には参加せずに早々に電車で帰宅しました。小生は、オーナー会の資格がないのにいつも誘われますが、なぜかなぁ……。枯れ木も山の賑わい???

 オーナー会の皆さんは愉快な方々で連盟事務局を退職してからも楽しくつき合わさせて頂いています。この11月で74歳ですから無理は禁物です。  平成25年9月16日 高木晧次

 

 

NO.112

スポーツクラブ通い

 関西ゴルフ練習場連盟には平成13年4月から11年と5カ月間お世話になり、平成24年8月末日で退職しましたので、フリーになって丁度1年が経過したことになります。

 昭和38年(1963年)に大学を卒業してから、ほぼ73歳まで働き続けてきたわけですが、リタイア後の生活設計では、日曜・祝日をメインに年間80日〜90日位はゴルフコースへ、平日は、ゴルフ練習場通いと近くの加古川市立図書館へ通い、時々は電車に乗って日帰り旅行を考えていました。しかし、実際は平日の午前中はゴルフ練習場へ、午後は自転車で5分位のコナミスポーツクラブへ行くのがメインになっています。腰痛対策で整骨院へ週2回通ってのマッサージも欠かせません。

 スポーツクラブでは、最初にマットの上でストレッチを15分、バイク(自転車)を30分、ウォーキングを30分してから、大腿筋と大胸筋のトレーニングをしています。最後にサウナと風呂に入って、合計2時間半くらいジムに入っています。あくまでもパワーアップではなく現状維持を目指していますが、何歳まで続けられるかが課題です。

ジム通いが出来なくなるようであれば、車の運転も怪しくなり、そうなればゴルフコースへも行けなくなります。当面は80歳まで現状を続けることが目標で、80歳の時点で元気であれば次の目標を設定したいと考えています。老いを楽しみながら過ごしています。

       平成25年9月1日 高木晧次

 

 

NO.111

お盆休みに孫が来る

 

 平成25年8月8日(木)〜13日(火)の間、孫(娘の子供)がやってきました。以前は伊丹市に住んでいましたが、父親の転勤でつくば市(茨城県)に引っ越してからもう7年位になります。お盆と正月に帰ってきますが、いっぺんに賑やかになります。一軒家とはいえ元々大きい家ではないし、二つの子供部屋は半分物置になっていますので、普段2人だけの家が急に5人になると狭くなります。年に2回、盆と正月に来ますが、欲しいものを買ってやるのがお爺ちゃんの役目で、小学校6年生の長女は小物を一杯買っていました。小学校4年生の長男はゲームソフトを大事に抱えてニコニコしていました。その喜ぶ顔を見るのがお爺ちゃんの楽しみです。昨日は香川県(孫の父親の実家)へ行きましたので、今日からのんびりと二人の生活に戻りました。写真は8月12日に姫路市立水族館へ行った時のものです。

 今月もゴルフが8回入っていますが、水分補給には気を付けて倒れないように頑張っています・

                        平成25年8月14日 高木晧次

 

 

NO.110

ルノワール展

 JR神戸線・灘駅を約10分南の海側へ歩いたら、兵庫県立美術館に着きます。2013年6月8日(土)〜9月1日(日)の期間、奇跡のクラーク・コレクション『ルノワールとフランス絵画の傑作』展が開催されています。ピエール=オーギュスト・ルノワールの絵画22点の他、フランソワ・ミレー、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ等の絵画が合計73点展示されていました。すべてがカンヴァスに描かれた油絵でしたが、その価値も充分に理解できないまま、2時間近く見とれていました。遅まきながら、こういうイベントに参加して少しでも人生に深みを付けられればと思っています。

 

平成25年7月19日 高木晧次

 

 

NO.109

母校のラグビー試合観戦

 平成25年7月7日(日)京都工芸繊維大学グランド(京都市左京区松ヶ崎)で行われたラグビーの試合を見に行って来ました。名古屋工業大学との定期戦で、小生が在学中の50年前も行っていましたので、長い歴史の定期戦です。京都と名古屋で交互に開催し、今年は京都で行われましたので、小生の卒業年次に近い15名のOBも観戦に加わり賑やかでした。

 試合は40分ハーフで、前半19対15で勝ち、後半も7対5、計26対19で我慢強く勝ってくれました。当日はやや風があったものの暑い暑い天候でしたが、若者たちは頑張ってくれました。今、小生がグランドに立てば5分も持たないだろうなと思いながらの観戦でした。

その後、近くの中華料理屋で美味しい料理に、美味しいビールを頂き気勢を上げました。

                         平成25年7月9日 高木晧次

 

 

NO.108

川島睦郎日本画展

 平成25年6月19日(水)〜25日(火)の7日間、JR大阪三越伊勢丹にて開催されている川島睦郎日本画展を見て来ました。川島睦郎画伯は京都市立深草中学校の同窓生で、小生は普通科の京都市立伏見高校へ行きましたが、彼は日吉が丘高校の美術科へ行き、その後京都市立美術大学日本画専攻科を卒業しました。その後、会社勤めをすることもなくそのまま絵描きとして人生を送ってきた稀有な同窓生です。

31歳で日春展日春賞受賞、36歳で日展特選受賞、46歳で日展審査員となり現在は日展評議員とのことです。5年前にも東京・日本橋三越本店で個展を開催し、今回は日本橋三越本店だけではなく、大阪三越伊勢丹でも開催となり駆けつけました。

 人物写真の左から、茜敏晴君、高木、川島睦郎君、四方美恵子女史。

 

 

               平成25年6月22日 高木晧次

 

 

NO.107

ぐるーぷからす展

 平成25年6月11日(火)第21回ぐるーぷからす展を見に行ってきました。この展示会は兵庫県立神戸高校絵画クラブのOB会が毎年開催されているもので、今年で21回目という事ですから大したものです。出展者の藤村仁朗さん(日本毛織()の4年先輩)から毎年案内を頂いていますので、今年もニッケ大先輩の岡田重一さんと一緒に観覧してきました。会場はJR元町駅近くのアートホール神戸の1階で、その後大丸百貨店東隣のニッケビル本店地下のミュンヘン元町店で懇親を重ね、楽しいひと時を過ごしました。藤村さんの絵の前で取った写真です。

                           平成25年6月14日 高木晧次

 

 

NO.106

四国・徳島ゴルフ遠征

 加西インターカントリークラブ(兵庫県加西市)で華陽会というプライベートな会を作っています。もう20年位前に大阪在住・在勤者で会を作り毎月コンペを行ってきました。毎年1泊か2泊で遠征をしていますが、今年は平成25年6月8日(土)徳島県のJクラシックゴルフクラブ、9日(日)は徳島カントリー倶楽部でプレーして来ました。総勢14名で、今は大阪在住・在勤以外の方も仲間に入っていますが、楽しいゴルフ好きばかりです。小生は遠征では余り良いスコアで回ったことがなく、今回も41、41、41、41とバーディは1個もなく、ハーフのスコアは4回とも全く同じでした。過去の遠征を振り返ってみますと

  平成24年 岡山県 : 日本原CC 作州武蔵CC

  平成23年 滋賀県 : タラオCC

  平成22年 北海道 : ニドムクラシックGC エミナGC アーレックスGC

  平成21年 北海道 : 恵庭CC 小樽CC ザ・ノースCC

  平成20年 北海道 : 北海道クラシックGC 苫小牧CC ニドムクラシックGC

  平成19年 北海道 : 樽前GC ザ・ノースCC 北海道クラシックGC

  平成18年 北海道 : ザ・ノースCC サンパーク札幌GC ニドムクラシックGC

  平成17年 岡山県 : 鬼の城CC 真庭CC

  平成16年 宮城県 : 仙台南GC 東蔵王GC

  平成15年 長崎県 : パサージュ琴海GC 

  平成14年 鹿児島県 : 祁答院GC 溝辺GC

  平成13年 宮崎県 : ハイビスカスGC 青島GC 宮崎CC

まあ色々な所へ行ってますなぁ。元気にゴルフが出来るだけ幸せと思っています。

                         平成25年6月11日 高木晧次

 

 

NO.105

黒田官兵衛と加古川

 平成25年5月30日(木)加古川プラザホテル(兵庫県加古川市)にて、加古川観光協会主催の上方講談師・旭堂南海氏による記念講談を聞いて来ました。演目は『講談・黒田官兵衛と加古川』と題して、播州の地と官兵衛との関わりのある逸話を、面白おかしく聞かせてくれました。2014年のNHK大河ドラマは『軍師官兵衛』が決まり、来年は姫路を中心とした播州地区が話題の地になりそうです。

黒田官兵衛は1,546年姫路に生まれ、1,604年に59歳で亡くなっています。信長、秀吉、家康の三英傑に重用された武将・大名で、最終的には九州・福岡藩52万石の礎を築いた人物で、「天才軍師」と称されていたとのことです。その妻の天姫(てるひめ)は加古川市志方町出身で、加古川には縁の深い人であることも知りました。官兵衛は側室を持たなかったことでも知られています。豊臣秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛を挙げ「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言ったと伝えられているようです。

講談師・旭堂南海氏は加古川市志方町出身で、加古川東高校卒業後、大阪大学文学部で国文学を専攻し、1,989年に三代目旭堂南陵に入門し、その後「咲くやこの花賞」を受賞し、大阪で昔ながらの「講釈場」を復活させるなど、上方講談界のホープとして活躍中です。小生自身は、もうちょっと伝統・文化・芸術にも興味を持たなくてはと感じる今日この頃です。 

 

                         平成25年6月5日 高木晧次

 

 

NO.104

花畑秀雄君を偲んで

 平成25年5月19日(日)に、花畑秀雄君の墓参りに行ってきました。阪急宝塚線・池田駅(大阪府池田市)に近い宗光寺境内にお墓がありました。花畑秀雄君は、我々が京都工芸繊維大学4回生(昭和37年 1962年)の時の1回生で、池田高校でアメリカンフットボールをしていて、当時我々の大学にはアメリカンがなかったのでラグビー部へ入ってきたとの事でした。京都市南区の吉祥院グランド(今はあるかな?)で京都大学との練習試合中に後頭部を強打し、スクラムを組もうとして倒れこみ、病院へ運び込まれましたがそのまま帰らぬ人となりました。

 その後50年が経過し、当時のラグビー部監督の植月徹先生と我々4回生4名と1回生5名が集まり、往時を偲びながらお墓参りの後、近くの和食レストランで偲ぶ会を開催しました。当日は生憎の雨でしたが、何か心のつかえがとれたような気分になりました。1回生の皆さんには50年振りに御会いしたのですが、もう来年には70歳になるとのことでした。寄る年波には勝てませんね。                    

平成25年5月27日 高木晧次

 

 

NO.103

久保嶺爾画伯の襖絵鑑賞

 平成25年5月17日(金)京都市立深草中学校の同窓会がJR京都駅前の京都タワーホテルにて開催されました。それに先立ち七條通り堀川西・西本願寺南隣の興正寺の襖絵を鑑賞しました。法然上人750年忌にあたり、浄土宗興正寺派本山・興正寺の客殿の襖絵が新調されることになり、同級生の久保嶺爾君が筆をふるいました。通常は非公開とのことですが、お寺側の取り計らいで鑑賞することが出来ました。久保嶺爾画伯は深草中学校、日吉ケ丘高校(美術科)、

京都市立美術大学(日本画科)を卒業し、そのまま絵描きとして生計を立ててきた稀有な人材です。日春展入選、日展特選等を得て35歳で日展会友になり、現在、画家協会会員、京都造形美術大学講師でもあります。興正寺正門での5人の写真の左端の男性は()水野肇デザインハウス(東京目黒区)社長の水野肇君です。襖絵を説明しているのが久保画伯本人。襖絵の前の写真の左側は吉川定男君。我々の中学校同窓生は多士済々ですが、小生のような、企業の一歯車として平々凡々として生きてきた人間にとっては、とても考えられない同級生です。

     平成25年5月20日 高木晧次

 

 

NO.102

ベルリンの壁

 今から22年前の1991年10月、日本毛織()本社(大阪市中央区)勤務時代に、スクールコート事情の視察でヨーロッパへ出張しました。ロンドン、パリ、ベルリン、ミラノの諸都市を回り、中・高校生の登・下校時のコート着用状況を視察し、百貨店の売り場も見て素材の視察もしてきました。現在日本毛織()の取締役をしている迫間満君と二人の出張でしたが、当然現地事情の分からない二人だけでは仕事になりませんので、滞在先では伊藤忠商事の現地駐在員の方々のお世話になりました。出張先は、ロンドンとパリはヨーロッパの主要都市ですし、ミラノはニッケの駐在員事務所がありましたので当然の行き先でしたが、なぜかもう1か所にベルリンも選びました。ベルリンへは2度と行くことはないと思ったからでしたが、なぜベルリンなのかといろいろ言われました……。

ベルリンの壁は1989年11月10日に崩壊しましたから、崩壊後まだ2年経っていませんでしたので、まだ一部観光用に残されていました。ベルリンは米・英・仏・ソ連により分割占領されていましたが、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだため、1961年8月13日に東ドイツ政府が東西ベルリンの道を遮断し、有刺鉄線で最初の「壁」が建設され、その後コンクリートの壁が155kmも作られたとの事です。28年間も分断されていたことになります。

当時ブランデンブルグ門の近くの広場では、子供たちが屋台のような小さな台の上で色々な壁のおみやげを売っていました。西ベルリン側の壁は色彩鮮やかに色々な絵が描かれていましたので、その絵の色がついているコンクリートの破片が土産でした(写真)。

 当時、東ベルリン側はまだひっそりとした感じで、道路には信号も少なく、街中にはネオンサインや看板も殆どなく、閑散としたイメージでした。連れて行ってくれましたレストランは東ドイツの将校専門のレストランだったとのことで、看板もありませんでしたが、料理は山鳥料理で大変珍しい食べ物でした。夜はインターコンチネンタルホテル近くのレストランで、ドイツ語は解らないので英語のメニューを取り寄せ、大きな牛肉と大きなフランクフルトソーセージの美味しい食事をしました。その後ぶらぶら歩いていましたら日本人の画家が路上で似顔絵を描いていましたのでお願いしたのが掲載の写真です。短い時間で書いてくれましたが、3千円ほど支払ったと記憶しています。51歳でしたから髪の毛もふさふさとして若かったですね。

ミラノへはテンペルホーフ空港からプロペラ機で飛びましたが、東ベルリンのテンペルホーフ空港は賑やかさが全くなく、軍靴を履いたドイツ兵が今にでも出て来そうな雰囲気でした。東西ベルリンの違いをまざまざと見せつけられた感じでした。   

出張中イタリアではミラノ近郊でゴルフをしましたが、イタリアオープンを開いた有名なゴルフ場でした(コース名は忘れました)。ヨーロッパへは2回目の出張でしたが、この時はエクゼクティブクラスで行けましたのでゆったりとしたフライトで、若かったせいか時差の心配もなく、楽しい出張として、懐かしく頭の中に強く残っています。

 

 平成25年5月13日 高木晧次

 

 

NO.101

ラグビー部の練習見学

 小生の出身大学:京都工芸繊維大学のラグビー部の練習を見て来ました。この大学は京都工業専門学校と京都繊維専門学校とが昭和24年の学制改革で一つになり、京都工芸繊維大学になりました。小生が入学した昭和34年は工芸学部と繊維学部の2学部でしたが、今は工芸科学部の1学部で、繊維のつく学科は一つもありません。なぜこの大学名が残っているのか不思議な気がします。所在地の松ヶ崎は東を見れば比叡山、北側には京都五山送り火の妙法の法が見える静かな街の中にあります。当時は国公立大学志向の時代でしたし、就職のことなど一度も心配せず(就活という言葉もありませんでした)、卒業し日本毛織()へ入社しました。今の時代とは全然違うような気がします。

小生は大学の4年間ラグビー部に所属していましたが楽しい思い出が一杯です。平成25年4月20日(土)の昼前に京都市左京区松ヶ崎のグランドに到着した時は、練習はほぼ終わりの時間でした。グランドは3つに分けて、アメリカンフットボールとラグビーとラクロスが練習していました。我々昭和38年卒業の大橋浩二君(元旭硝子勤務)、竹迫雄司君(元積水化学勤務)、社家間武夫君(元ニチバン勤務)と小生(元日本毛織勤務)の4人で行きましたが、他に同期では浦野義弘君(元TOTO勤務)、矢寺啓二君(元宇部興産勤務)、今は亡き町田忠太郎君(元丸善石油勤務)の7名が居ました。夏の合宿は4年間とも、岐阜県高山市の正雲寺で行ったと記憶しています。盆明けの10日間程、飛騨の高山は朝夕は涼しいといえども昼間は暑く、あの鉄管ビール(水道水)のおいしかった味は今でも忘れられません。50年ほど前の懐かしい思い出です。

 その後四条河原町へ戻りビアホールで一杯飲んだ後、河原町通りを北へ、三条通りを東へ、先斗町を南へ、四条通りを西へ散策しながら帰途に就きました。大学時代のたった4年間の付き合いでしたが、今でも懐かしく話し合えるのは、どうしてなのでしょうね……。

                         平成25年4月24日 高木晧次